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旅先ロシア・サンクトペテルブルグ、アメリカ・ポートランド

スープ詩がもたらした、赤く冷たいスープ2種

旅人菅原敏(詩人)

「自分で書いたはずの詩が、これまでと違う衣裳に着替えているような感覚」

六月のサンクトペテルブルグは、白夜だった。

政治の都がモスクワだとするなら、美術や芸術で栄えた文化の都。日本でいうなら京都のような土地だ。古くからある図書館の前に、ぽつりと馬車が止まっていたりする様には、趣もある。

菅原敏さんはその年、プラハを拠点にしながら一ヶ月ほど、東ヨーロッパを旅していた。同時期にロシアとポーランド、ふたつの朗読会に招かれたためだ。サンクトペテルブルグでは「プーシキンの家博物館」という、国民的詩人の生家で詩を読む。好きな詩人が育った家での、願ってもない機会だ。

時間軸をさかのぼれば、同じ国、同じ土地、同じ家。もしかしたら同じ調度品の前で、同じ詩を音読していたかもしれない。「プーシキンも、二百年も後に極東の島国からやってきた人間が、謎の言語で自分の詩を読むなんて、思ってもみなかったでしょうね」と笑う。

海外で自作の詩を読むときには、スクリーンに字幕を出すための翻訳が必要になる。英語ならばある程度すりあわせができるけれど、ロシア語となれば、もう翻訳者に委ねるしかない。

「自分で書いたはずの詩が、これまでと違う衣裳に着替えているような感覚で、とても新鮮でしたね。日本語の朗読を聴くロシアの人たちは、言葉の意味が剥がれ落ちた詩を、音として感じてくれたかもしれない」

ロシアを締めくくった、苺の冷たいスープ

朗読会のあとに招待されたのは、ロシア料理のレストランだった。ニシンのマリネやペリメニというロシア風水餃子など、その土地ならではのフルコース。現地の人のように多くは食べられないけれど、菅原さんも存分にそのもてなしを楽しんだ。

その最後に出てきたのが、お皿になみなみと注がれた苺のスープだった。ひんやりと冷たくて、赤い苺の甘酸っぱさが、心地よい。中央にはアイスクリームも浮いている。長旅の疲れと緊張感のなか、朗読会を無事に終えてほっと一息。温かいスープに癒やされた経験は数あれど、きんと冷えた味わいに安らいだのは、はじめてだ。

そのころは、ちょうど詩集の入稿直前。古今東西の恋愛詩を菅原さんらしく訳す『かのひと 超訳 世界恋愛詩集』の作業をしていて、翻訳について考えをめぐらせているタイミングだった。

『パターソン』という詩人を描いたアメリカ映画に、「詩の翻訳はレインコートを着てシャワーを浴びるようなものだ」という一節がある。とはいえ翻訳がなければ、文化が国境を越えることはない。だからこそ「レインコートの上から受け取る温度や感触でも、自分なりに大切にしたい」と、菅原さんは語る。そういえば詩集『かのひと』の表紙は苺のスープと同じ、赤だ。

庭のトマトにこだわる、今年最後のガスパチョ

その次の秋には、ポートランド州立大学に招かれ、講演と朗読をすることになった。菅原さんが詩を書き始めたルーツは、一九五〇~六〇年代のアメリカ文学にある。ビート世代などに代表される作品を読みあさり、影響も受けた。そんな国で自身の詩を読むことは、過去の自分に報いるようで、すこし晴れがましい。

滞在の半分はホテル、残りの半分は教授の自宅に泊まった。教授は六十六歳で、日本文化を専門とし、ポートランドと東京のクリエイティブをつなぐ活動を担っている。講演に向けて、深夜まで詩の翻訳を調整したりもした。滞在中の食事が、とりわけ思い出深い。庭の菜園からもいできた野菜や果物を使って、ほぼすべて教授がつくってくれたのだ。

教授が「今年最後のトマトを使って、ガスパチョをつくりましょう」と言ったのは、何日目のことだっただろうか。彼曰く、青いうちにもいで追熟させる市販のトマトと、熟しきってからもぐ自家栽培のトマトでは、味が全然違うという。だから教授は、自分のもいだトマトでしか、ガスパチョをつくらない。

ついいままで枝になっていたトマトがスープになり、自分の口まで届く。工程を眺めているだけで面白かったし、「今年最後のガスパチョ」という響きも、なんだかおかしい。詩に導かれて出会った教授と、異国の地で味わうスープは、とろりと酸っぱくてやさしかった。

いや、本当は味なんて、二の次だったかもしれない。苺の冷製スープもガスパチョも、自分を形づくってきた詩のある場所で食べる、という時間がうれしかった。あの日のページをめくると、まるで旅の句点のように、ふたつの赤が静かに浮かび上がってくる。

旅人のプロフィール

菅原敏

詩人。二〇一一年、アメリカの出版社PRE/POSTよりデビュー。グローバルな講演や朗読活動も数多く行っている。雑誌の連載や寄稿をはじめ、異業種とのコラボレーションやインスタレーションなど、詩を軸とした幅広い表現活動を展開。二〇一七年『かのひと 超訳 世界恋愛詩集』(東京新聞)を上梓。東京藝術大学 非常勤講師。http://sugawarabin.com/