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旅先フランス 地中海の街・ゴルフ=ジュアンとカンヌ

スープ集中を呼び起こすスープ2種

旅人嶋浩一郎(「ケトル」編集長)

「海沿いのその店だけ、地中海にある異次元空間のようなんです」

南フランスの誰もいない砂浜に、ぽつりと、ガラス張りのレストランがある。

白い壁に、青い空と地中海とのコントラストがまぶしい。店内では、しっかりと整えられたテーブルクロスの上にカトラリーが並び、ボウタイ姿のギャルソンが出迎えてくれる。嶋浩一郎さんは、そのレストランのことを「地中海の異次元空間」と評した。

毎年六月に開催される『カンヌライオンズ』は、広告業界のお祭りだ。さまざまなアワードが発表され、興味深いセミナーが並ぶ。そのフェスティバルの一週間をカンヌで過ごすのが、嶋さんの通例となっている。

せっかく南仏にいるのならば、おいしいブイヤベースが食べたい。いくつかの店を渡り歩いたあと、いい店だと勧められたのが、ビーチにひっそりと存在する異次元空間「TETOU」だった。カンヌから車で数十分の港町・ゴルフ=ジュアンにある。

十九世紀にナポレオンが流刑となり、追放地であったエルバ島を脱出して、フランス本土に再上陸を果たした。その場所が、ゴルフ=ジュアンの浜辺なのだという。

TETOUのブイヤベースには、具が入っていない。だけどスープだけで充分に満たされる、と嶋さんは言う。さまざまな魚介のエキスが、ケチャップの色とも似た橙色のスープに、ぎゅっと凝縮されている。気取ったフルコースでも出てきそうなレストランで、漁師の料理だったブイヤベースをかしこまって食べるのが、なんだか楽しい。

いくつかメニューはあるのだが、ほとんどの人がブイヤベースしか頼まない。嶋さんは日本でも、メニューがひとつしかない店が好きだ。この店でも、みんなが黙々とブイヤベースに没頭する光景がたまらないという。

静かな読書を彩る、二時間のキャラメリゼ

カンヌ滞在中は、キッチン付きのホテルに泊まる。ほとんど外食で済ませてしまうものの、ふと、深夜にオニオングラタンスープをつくりたくなるらしい。東京にいるときもしばしば起きる発作だから、そんな自分を見越して、材料は昼間のうちに買ってある。

午前一時。キッチンに立って、たまねぎのキャラメリゼをはじめた。

たいていのレシピには二十分ほどでOKだと書いてあるけれど、絶対に二時間はかかる。でもその二時間が、意外といい。はじめはしっかり形のあったたまねぎが、時間が経つにつれて、くたくたになっていく様子を眺めるのが、まず悪くない。村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』に「ぱりっとした調教済みのレタス」という表現があるけれど、まさに『たまねぎを調教している感覚』なのだという。カンヌのたまねぎは大きいから、日本よりも調教しがいがある。

粛々とたまねぎの具合を見ながら、嶋さんはシンクにもたれかかって本を読む。二時間あれば一冊読めると気づいてから、オニオングラタンスープづくりは、読書の仲間になった。ページをめくり、たまねぎを静かに混ぜて、白ワインを飲む。隠し味のために買ったワインボトルが、いつのまにか空になっていたことも少なくない。

つくるのも、食べるのも。集中を呼び起こす時間

代々木上原の店でとても気に入るオニオングラタンスープに出会ってから、自分でもつくれるようになりたくて、嶋さんはレシピの研究をはじめた。コンソメやブイヨンを変えてみたり、チーズをグリュエールにしてみたり、試行錯誤を重ねていまの味がある。同じものを繰り返し食べて、微妙な味の差を感じながらブラッシュアップしていく。絶妙な配合を見つければ、味ががらりと変わるのも面白い。

「スープは集中する食べ物ですよね」と、嶋さんは言う。まるでブルゴーニュのワイン、ピノ・ノワールを飲むときのように、そのひとさじに広がる世界を味わっていく。神経を研ぎ澄ませて、さまざまなエッセンスが溶け込んだ複雑な風味を、しっかりと感じたい。ブイヤベースをいただくときはもとより、オニオングラタンスープには、つくるときにも穏やかな集中がある。

華々しいカンヌの裏側で、毎年。嶋さんは閑静な海沿いのレストランでブイヤベースを食べ、深夜にオニオングラタンスープをつくっている。

旅人のプロフィール

嶋浩一郎

一九六八年東京都生まれ。一九九三年博報堂入社。二〇〇四年「本屋大賞」立ち上げに参画。現在NPO本屋大賞実行委員会理事。カルチャー誌『ケトル』の編集長、エリアニュースサイト「赤坂経済新聞」編集長などメディアコンテンツ制作にも積極的に関わる。二〇一二年東京下北沢に内沼晋太郎との共同事業として本屋B&Bを開業。